今年1年の目標は”10回大会出場”と決めていたワタクシ≪満≫、でも3月のスキーであばら骨を骨折して走れなくなり・・・、ランニングシーズンの5月だというのにまだ今年4回目の大会出場であります。(イテテ、イテテ)
この「LA PYRENEENNE DU 20区』という大会は今年が第2回目というできたばかりの新しい大会。直接20区の区役所へ行って、ACOさんと2人分申し込みをしたのですが、ゼッケンをくれないのね・・・。ゼッケン番号だけ教えてくれて、「Tシャツとゼッケンは当日の朝に受け取ってください」ということでした。
ふーーん、ふつうの大会だとすぐにゼッケンを受け取れるのにね。(※そもそもこれが間違い)
で。当日の朝。
スタートは9時30分でメトロGAMBETTAの駅に8時15分ごろ着いた我々2人。時間があるし、コーヒーを飲んでウオーミングアップでもしようか~と思っていたのですが、20区の区役所前は長蛇の列・・・。えーーーーーーーーーーなんでよーーーーーーーー。
まあ、とりあえず並んだのですが、全然前に進まない・????
区役所の中で荷物預かりからゼッケンの受け取りまですべてやっているので、入場する人数制限をしているのね(セキュリティの問題で)
おいおいおい、こんな事、区役所の前にテントを出してやればいい話だろ!と思ったのですが、経費削減のためか、とにかく人が少ないの!
イライライラ・・・・・。
結局2人分のゼッケンを受け取って区役所の建物から出たのが9時10分。ゼッケンの受け取りに約50分・・、ってそんなのありかよぉ!
が、まだまだ外には長蛇の列が続いていて・・・、まだ2回目の大会で経験が少ないとはいえ、「そりゃーおかしいだろぉ!」と思いつつ、ゼッケンをつけて慌ててスタート地点へ向かったのですが、今度はスタート時間の9時30分になってもスタートしないのよ???
「まあ、だれにも問題はあるからね」と大人の対応をしていたのですが、5分・・、10分・・、15分・・、まだスタートしない・・・。イライライラ・・・。
「お前らいい加減にしろぉ!」を思っていたところで、何の前触れもなく『バン‼‼‼』とピストルがなってスタート。結局スタート時間は9時48分でした。
まずスタート後は右に左に曲がってずーっと下り坂。メニルモンタンの駅まで行って、そこからがめちゃめちゃきつい上り坂。ここで背中に何やら料理の広告をつけて走っているランナー発見。誰かと思ったら、テレビや雑誌などでよく見る星付きシェフ、ティリーマルクス氏でした。ふーーん、こんな有名人が出場してるんだね。有名シェフってプライドが高くて不健康な人が多いけど、氏は気さくなおじさんに見えたね。そんなに大きくはないけど、武道をやっているだけあって胸板がメチャメチャ厚い人。でも面白いのが、腹回りが胸板と同じくらいで、スキンヘッドだから、後ろから見るとドラえもんが走っているみたいに見える・・・。ブラボーシェフ!頑張ってね。
コースは眺めのいいベルビル公園の上を通って、ベルビル坂を下って左折。ここからナシオン広場の手前まで約3㎞の緩やかな下り坂の1本道。ACOさんはこの直線が最高だったと言っていましたが、本当にそうだよね。
ここでやっとこの10㎞マラソン、1周片道コースだと気づきました。(※普通のパリ市内の10㎞マラソンは5㎞を2周する大会が多い、それは道路使用料金が高いからそうなってしまうのだ。でも10㎞1週コースのほうが楽しいよね)
ナシオン広場の手前で左折。rue ピレネーから約2㎞の上り坂。この最後の2㎞、だらだら上り坂がきつかったーー。最後はエネルギー切れでフラフラでゴール!
あーーーーーーーよかった。ほぼ2か月間走っていなかったけど、今日も10㎞走れたよーん。
オレンジを食べてトイレへ。ここのトイレは仮設ではなくて区役所内のトイレだったのできれいで水も流れるし、石鹸+タオルもあり。ただしエレベーターで上階に行かなければいけないのでわかりにくい。
外に出ると20区の区長さんがあいさつしていました。
この日の参加者は905人だそうです。(ふーーん、少ないよね)
でもこの大会なかなかおすすめです。パリの20区って、日本人はあまり行かないから、下町のパリが見れて楽しいよ。でも坂道が多いから自己ベストを狙う大会ではありません。
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レース後は今日のもう一つの目的のペールラシェーズ墓地にGO‼
この墓地は89ヘクタールあるパリで一番大きな墓地で、外周を走ると約3㎞(※墓地の中は走ってはいけません)、天気のいい日は散歩に最高です。
ワタクシ、歴史好き人間でありますから、この墓地にはけっこう行ってますねぇ。そう、葬式にも出たことあるし。パリ在住の日本人が亡くなると、たいていはここでセレモニーをやるからね。だんだん詳しくなったのよ。
まず有名なところでは、大竹しのぶさんが役をしていたエディットピアフ
この墓は隠し子騒動の時にDNA鑑定のために掘り返されたことがありますね。
オペラ歌手のマリアカラスは地下納骨堂。
詩人のアポリネール(サンジェルマン・デ・プレ教会の横の公園に変な顔をした像がある。ミラボーの下をセーヌは流れる、僕らの恋も流れる・・・で有名)
画家のドラクロワ。この人はフランス女性の象徴・国旗を持ったマリアンヌを描いた人。
ほかにも多くの有名人がいますが、古い政治家とか哲学者とか・・・、よくわからないよね・・・。
ピアニスト、作曲家のポーランドの英雄、フレデリック・ショパン。この墓はいつでも花が多いねー。音楽をやっている人なら一回くらいは来たことあるでしょ?ショパンは『おぐら』から歩いてすぐのグランブルーバール駅の辺りでコンサートとかやっているのだ。記念のプレートがいまでもあります。(見づらいけどね)
そのほかにいろんな人がいるけど、きりがない・・・。
やってきたのがロックバンド、ドアーズのボーカリスト ジム・モリソンの墓。
若い人はあまり知らないんじゃないかな?この人、フランシス・フォード・コッポラの映画『アポカリプス ナウ』で歌っていた人です。・・・・それもわかんねーか。まあ、ドアーズの活動期間も短いしね。ヒット曲もあまりないしね。この人の価値はヤクのやりすぎ、ドラッグの打ち過ぎで死んだロックスター、ということでしょう。尾崎豊がパリで死んだような、人です。このジム・モリソンの墓の近くにあるのが、今日の目的、1867年に亡くなった佐賀の商人・野中元右衛門さんのお墓です。
このお墓、本当に分かりづらいんだよね。
かなり古い地区で、斜面になっているし・・・。歩道からは見えません。
で、5分ほどうろうろして、あったー、これだー!と正面に回っての第一声が『ひえーーーーーー、な、な、なんだこりゃーーー!』
墓の上に大きなムカデと巨大ミミズがいたんですねーーーーーーー!この辺りは斜面になっている古い地区でジメジメしているんだけど、こんな大きなミミズがパリにいるんだね。
野中元右衛門さんの墓の上には真っ黄色に変色したカップ酒、カラカラになった花、コケがこびりついた1、8Lの裏面が白鹿の日本酒がありました。(※その後、この花や日本酒は2012年3月ごろに有田焼400年記念の海外視察団関係者の皆様がお供えした品だと判明。つまり3年2か月前のことです)
墓石は緑色。どうやら隣からコケが風に乗って飛んでくるみたいなのね。
これがすぐ後ろのお隣さん。墓石が傾いて中が見えるのよ・・・。
この日は時間がなかったので、3日後、Jジョギングスキー部の奥ちゃんと2人で掃除に行きました。
まず事務所でじょうろで水を入れてGO!一礼して掃除を始めたんですけど、デッキブラシでこすってもダメなのよ。もっとコテみたいなので削り落とすというか、こそぎ落とすというか・・・、墓の隙間からは雑草がすくすく育っていました。
カタツムリもへばりついていました。
ちなみに白鹿のお酒を注いでみたらこんな色。(注)嬉野茶ではありません)
うーーん、けっこうお墓って汚れるものなのね。
水をかけてデッキブラシで墓石をごしごしこすっていたら白いTシャツに水がはねてまっ黒になったもんね。で、2人がかりで格闘したあとがこの写真。
鉢植えの花が2つ、花立に花が2本(※野中元右衛門さんの墓には花立もお線香を立てる台もない)この花が入っている青竹は、レストランで使っている日本酒用の竹とっくり。
★本当は有田焼の大皿がほしかったのだけど用意できなかった。木製の台はレストランで使っているすし用のゲタ。
★本当は5月らしく柏餅か佐賀の羊羹か丸ぼうろでもお供えしたかったけど時間がなくてできなかった。これは冷凍品の草餅とワンカップ大関6本。
★本当は佐賀の酒のつまみがほしかったけどよくわからなかった。で、とりあえず柿の種。
★でも日本酒は本当の佐賀の酒、三養基町の酒『天吹(あまぶき)』
これを墓石にかけ我々も一杯飲みました。
いかがですか?元右衛門さん、やっぱり佐賀の酒はおいしいでしょ??
★タバコは薩摩藩と一緒に出品したのなら知っていたんでしょうが、刻みタバコとキセルが用意できなかった。とりあえず奥ちゃんが吸っているタバコ。
★本当は嬉野茶の1級品を用意したかったけど時間がなくてできなかった。静岡茶ならあるけど…、今回はパス。
野中元右衛門さん、少しは喜んでいただけたでしょうか?
なにやら150年分の怒りみたいなものをビンビン感じるんですけど~(『だいたいお前らなー、だれのおかげでパリで商売ができると思っているんだー!』みたいな・・・)
ワタクシ≪満≫が個人で、『元ちゃん、いやー悪かったー。ま、ま、1杯飲んでよー』(でも『ま、ま」じゃ済まない・・・、みたいな・・・)
普通に考えれればそりゃそうだよね。怒ってももしょうがないよね。150年も無視してきたんだから。ワタクシがパリに住んで約30年ですが、ほとんど聞いたことがない・・。
パリに住んでいる日本人が数万人、として、パリに来る日本人が年間30万人ぐらいとすると、有田焼400年記念の関係者の皆様が3年2か月前にパリに来て墓参りしてからざっくり100万人ぐらいの日本人がパリを通ったことになる。100万人ですよ、100万人・・・。
その間、野中元右衛門の墓は通過・・・・。うーーん、皆さん、本当にこれでいいんでしょうか???
最近、”クールジャパン”とかで、日本文化を世界に発信しようとか、日本食や日本の物産品を海外に売り込むキャンペーンをやっていて、JETROや農水や民間がいろいろなイベントや展示会を開いていますが、これって148年前に野中元右衛門さんがやっていたことと同じですよね?
ものすごい人数の日本人がパリに来るけど、だれか先人の墓を訪ねてあいさつした人っているの?
最近はいろいろな地方自治団体もパリに来るようになった・・・。なんとか県、ほにゃらら市・・・が、自分のところの特産品の食品や酒を持ってきて、『一度来てください、買ってください』と言うのだけど、その中には同県人の佐賀県も含まれています。が、みなさん、先輩の野中元右衛門さんにあいさつに行ったことありますか?九州のみなさん、佐賀のみなさんどうですか?
これって少しおかしいんじゃないの?
ペールラシェーズの墓地はパリ市内にあるから1時間もあれば十分に墓参りができますが、だーーれも行かない、というのはなぜ??知らないから?
これって日本人社会全体の問題だよね。
パリにあるテレビ局の支局、NHK、日テレ、テレ朝、フジテレビ、TBSなども取り上げてくれないし・・・。ジャーナリスト、新聞然り・・・。
パリの新聞OVNI、ニュースダイジェストなども書いてくれない・・・。
そもそも佐賀県の人も知らないんじゃないの?
ワタクシ、佐賀県出身でも何でもありませんし、縁もゆかりもありません。(※武雄温泉には25年前に行ったことがある)この野中元右衛門の墓に関しては、ほとんど歴史の世界ですから、同郷人がどうしたとか、『お前よそ者で関係ないだろ!』とかではなく、日本人社会全体で守ってあげる必要があると思うんですね。
これはただのお墓ではなくて貴重な歴史遺産です。
そもそもこの1867年の第2回万国博覧会からパリの日本人社会は始まっているんですね。
まあ、その前にも1862年の竹内遣欧使節団とか、1864年の池田長発幕府使節団とか1865年の薩摩柴田剛中一団の訪欧とかありますが(※1万円札でおなじみの福沢諭吉さんもこの時パリに来て、パレロワイヤルのホテルに泊まっている)、いわゆるパリの住人、民間人を含めた長期生活者の日本人は、この野中元右衛門さんが来た1967年が最初です。
この時は団長が徳川昭武(この人は15代将軍・徳川慶喜の弟)や実業家の渋沢栄一や日本赤十字社創始者の佐野常民など、かなり有名人がいましたが、その他にも江戸柳橋の芸者・おすみ、おかね、おさとの3人。(※この人たちが日本人女性がヨーロッパに来た第一号。この人たちからジャポニズムが生まれて、モネやゴッホの絵につながったという話もある)
あとは芸人の一団、松井源水一座、浜碇定吉一座などが曲芸や手品、サーカスにも出ていたらしい。…しかし日本文化が曲芸ですか?
というわけで、初めの日本人社会はけっこうキワモノ、ゲテモノ、見世物すれすれの民間人から始まったみたいよ。
しかし、1867年、その時代の動画なんてありませんし、写真もあるんだかないんだか・・・?
現在、たった一つ残っているのが、たまたまパリで亡くなった野中元右衛門のお墓なのです。
そもそもこのお墓は1871年のパリコミューンの内戦の時に一度倒れて壊れているのだ。それを1873年に、ウイーン万博に来た同郷の後輩・茶商の松尾儀助さんが再建したのだ。
うーーん、いい話じゃないですか??
お墓ってお金がかかるのよ。先輩のために、しかも海外でポン、とお墓を建てるなんてなかなかできないよね。
で。2015年の我々はどうなのよ、という話です。
墓の裏側には『松尾儀助再建』と書いてあって、日付は暦が違うので2333年1月と書いてあります。その上にはNONAKA MOTOSKE DECEDE A PARIS LE 16 JUIN1867と書いてあります。(MOTOSKEってなんだよ・・・)
正面には『大日本肥前野中元右衛門之墓』と書いてあります。
野中元右衛門がわれわれにフランスとのビジネスの道を開いてくれたパイオニアで、ドジャースに言った野茂みたいな人なら、松尾儀助さんは恩義を忘れない男気のある広島の黒田みたいな人ですね?
というわけで、現在、ワタクシ、6月の終わりぐらいに野中元右衛門の慰霊祭を計画中であります。
本物の神主さんに来てもらって、ちゃんと正式に慰霊祭を開く予定になっています。
が、それだけだと30分くらいで終わってしまうので、ペールラシェーズ墓地の中のガイドをワタクシ≪満≫がして”ペールラシェーズ歴史ランドネ”を行う予定です。
近いうちに正式に発表しますが、慰霊祭のみの参加ももちろんOKです。
佐賀の人も九州の人もお茶・焼きもの関係者の方も、歴史好きの人もお子様も・・・・。
なるべくたくさんの人に来てもらえたらいいな、と思っていますので、よろしくお願いします。
だらだらと長い文章に最後までお付き合いいただきありがとうございました。
では6月末に開く『野中元右衛門命 慰霊祭』でお待ちしています。
野中元右衛門さんや松尾儀助さんの事、詳しくご紹介いただきありがとうございます。
私は、佐賀県に住む末岡暁美と申します。
佐賀で、周りの方々に、J・ジョギングクラブの皆様の事、お知らせしたいと思います。
野中元右衛門さんや松尾儀助さんの曾孫さん方にもおつたえいたします。
お墓の掃除、有難うございました。
ご連絡ありがとうございます。貴サイト『幕末・明治の肥前 こぼれ話』(http://blog.livedoor.jp/bakumatusaga/)を大変興味深く読ませていただいています。佐賀の皆さん、野中元右衛門さんや松尾儀助さんの曾孫さん方にもお伝えいただけるとのこと、ありがとうございます。
松尾儀助さんの曾孫さん、参加予定との連絡がありました。今日はニューヨークでとのことで、日本に帰国後そちらに連絡が行くと思いますが、よろしくお願いいたします。
今日、佐賀新聞6月19日朝刊にて満山英昌さんの投稿とJジョギングクラブのホームページ拝見させていただきました。同郷の野中元右衛門なる方がパリに眠っているなんて全く知りませんでした。今回、佐賀新聞に掲載されたことで感心を持つ示す方が沢山増えて来ると思います。とても素晴らしい活動をなさりつつ、パリを楽しんでいらっしゃるのがホームページより伝わってきました。ありがとうございました。
コメントをどうもありがとうございます。
多くの方にご協力いただき、28日の慰霊祭に向けて現在準備を進めています。
無事終了しましたら、こちらのページでもご報告するので、よろしければご覧ください!
Père Lachaiseについてたまたま調べたらこのブログに辿り着きました。私も彼のお墓の事を知り、2012年3月にお花を供えに行きました。私が行った時はお酒やお花が沢山供えてあり綺麗でしたよ。写真がありますのでメールを下さればお送りします。
このお墓の事、知る人がもっと増えれば良いですが。
コメントありがとうございます。2012年に有田焼創業400年記念海外使節団の皆様が野中元右衛門の墓を訪れていています。
元右衛門さんのご子孫も、来仏の度にお墓参りと掃除をされているそうですが、何しろパリは佐賀から遠すぎてなかなか度々はいらっしゃることができません。この慰霊祭を機に、より多くの方にペールラシェーズ墓地に眠る野中元右衛門のことを知っていただければと思います。