ACOさんが走っている間、ワタクシは雨の中チャリチャリ~とロシア人墓地に墓参り。
1927年に開かれたこの古い墓地、ずーーーっと前から行ってみたかったのですが、初めて訪れました。
PARISから南に25㎞離れた郊外で、モスクワからだと3000㎞も離れているこの土地になぜ‥⁇こんなにも多くのロシア人が眠っているのか・・・??
これは説明が長くなるのですが、少しだけ日本も関係があるんですね。
まず中心人物はこの人、ニコライ2世(詳しくはこちら)
この人物はロシア・ロマノフ朝300年の最後の皇帝で、パリではアンバリッド前のアレキサンドル3世橋を作った人として知られていますね。アレキサンドル3世というのは彼の父親の名前で、金キラリンのペガサスが天にも昇るような美しい橋で、ロシア皇帝・ツァ―リーの威厳を万国博覧会で『どおよー俺様ー』的に見せつけたのですが、その後、彼は一家&一族皆殺しという大河ドラマになりそうなしくじり人生を送ることになります。
日本(ヤポンスキー)とロシア人墓地が関係があるのはこのあたり・・・
まあこんな事件が100年ほどの間にあったわけで・・・。
この墓地に眠っている人は、ロシア革命・ロシア内戦・ソビエト共産党から逃れて自由と生命の保護を求めてフランスに亡命した人たちとその一族ということですね。
白系ロシア人(詳しくはこちら)
それにしても、こんなにも多くの墓があるなんで・・・、知らなかったよ。
このお墓の子孫の人たちは、今年の11月のロシア革命100周年にはどうするんでしょうねー?特権階級、貴族、大地主だった人たちも多いはずなんですが・・・。
『革命ばんざーーい、ハラショー』と言うのか、『レーニンの藁人形燃やしてやりてえ⁻』となるのか、『もう何も言うことはありません。そっとしておいてください。』となるのか・・・???
そのあたりの、100年間のファミリーヒストリーをぜひ聞いてみたいのですが…。
前振りが長くなりましたが、今回の目的はロシア人墓地の歴史を説明することではなくて、2人の天才芸術家に会いに来たのです。
まずはアンドレイ タルコフスキー(詳しくはこちら)
ワタクシが初めてソ連(※最近はこんな言い方はしないのだが・・・、”ソ連”とはロシアの前の時代だったUSSRソビエト連邦のことです)の映画を見たのは、1970年代後半に日本で見た黒澤明の『デルスウザーラ』で、これは久々の黒沢の新作ということで、日本で結構長くロードショーをやっていた映画でした・・・。
その次に見たのは1984年の冬のこと。この時ワタクシはシベリアのハバロフクスという街をウロウロしていたのだが、あまりの寒さのためによくわからないまま入った映画館で映画を見たのですが、この時やっていた映画があまりにも製作費がかかっていなくてくだらないのにびっくりしたという記憶があります…。それまでは、ソ連の映画というのは「岩波ホールで見れるような格調高い文学作品」と思っていたのですが、実は国営モスフィルムが作る映画でもピンからキリまであって、一般庶民はけっこうくだらない映画を見てゲラゲラ笑ってるんだー、とその時初めて知ったのよん。
で、このアンドレイ タルコフスキーはピンの中のTOPエリート監督。ソ連を代表するアーティストであります。
昔々、1980年代・・・パリの6区にはソ連の映画を中心に上映する『COSMOS』という映画館がありました・・・。
ワタクシはよくそこへ行ってはエイゼンシュタインのポチョムキンとかトルストイだのドフトエススキーだのチェホフなどの原作の映画を見て”わかったつもり”になっていたのだが、そんな時、タルコフスキーの『ソラリス』という映画に出会ったのだ!
ソ連でSF映画なんて作る人がいるの??←パリスコープには『ソ連のスタンリーキューブリック』と書いてあった※ちなみにこの映画は数十年後にハリウッドで、スティーブンソダーバーグ監督・ジョージクルーニー主演でリメイクされたけどヒットしなかったね。
30歳でベニス映画祭のグランプリを取った天才タルコフスキーの作る映像は非常に美しくてとても個性があってとてもオリジナル。水の魔術師なんて言われているし、タルコフスキー風とでも言うのか・・・。
最近の監督さんの映画でもタルコフスキー風をパクったようなシーンがよくありますよね。こりゃあどう見ても貞子でしょう、みたいな・・・?
観客としてみているには素晴らしい監督さんだけど、実生活はかなり難しい人だったようですね。作品数もめちゃめちゃ少ないし、何というか、いい意味で『芸術バカ』というか『芸術の鬼』というか・・・。
セットの燃え方が気に食わないと、「もう一回セットを組んで燃やして』とか言っていたらしいです。だったらはじめっからCG使えよ、と思ってしまうのですが、昔はそういう時代だったんでしょうね。
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2人目が ルドルフ ヌレエフ・・・(詳しくはこちら)
ルドルフヌレエフが伝説になったスーパースターダンサーだということは今でもパリガルニエのオペラ座の売店に行けばすぐにわかる。絵ハガキ、本、DVDなどどこを見てもヌレエフ、ヌレエフ、ヌレエフ…。ヌレエフグッズであふれているのだ。男性ではNO1のダンサーだとワタクシは勝手に思っているのよん。
昔々、ワタクシが生まれ育った日本の田舎の地方都市では、「サインはV」のような”バレー”はあっても、”バレエ”という文化はなかった・・・。生で見たことはもちろんなかったし。「だめだめー、今日はバレエのレッスンがあるから早く帰らないとママに怒られちゃう~」などとのたまう女子の同級生は小・中・高とワタクシの田舎にはただの一人もいなかった。
ルドルフヌレエフを初めて見たのは多分1980年くらいにワタクシの田舎の映画館でやっていた『バレンチノ』という映画。
監督は音楽ものが得意な英国のケンラッセル。かつらをかぶる前のエルトンジョンが出演した『TOMMY』というロックオペラの監督なので興味があったのだ。
その時はヌラーーとした目つきのSEXYなんだか気持ち悪いんだかよくわからないけどダンスがめちゃめちゃ上手な英国の俳優さんだなーと思っていたのだ。
その後パリに住むようになったワタクシは、よくオペラ座に”バレエ”を見に行くようになる・・・。まだインターネットもなかった時代、あの頃はチケット売り場の窓口に行けばけっこう安いチケットが買えた・・・。買うのはいつも一番安い席。今の値段で5~10ユーロくらい、バレエはオペラよりも感性で理解できた、・・・・ような気がしたのよ。
『お~~~こんなお昼ごはんぐらいのお金で最高の芸術が見れるなんて』って、ワタクシ大都会生活の楽しさにはまりましたね。若かったからはまったのだ。
その頃にワタクシが田舎の映画館で見た、タンゴをクイクイッと踊っていたお兄さんが実はオペラ座のスーパースター「ルドルフヌレエフ」だと知ったのだ・・。
(ヌレエフ 動画はこちら)
実はワタクシ、ルドルフヌレエフを生では一回しか見ていない…。その時には彼は晩年でもうエイズになっていたのかもしれないけど、動きもそんなにめちゃめちゃすごいとは思わなかったのだが、全盛期の映像を見るとやはりとてつもなく素晴らしいダンサーなのだ。
(ヌレエフ 動画はこちら)
この墓はとても美しい。絨毯がかけてあるように見えるのですが、これは小指の爪ほどの大きさのモザイクでできているのだ。しかも死後23年経ってもほぼ完ぺきな状態で触ることもできる!こんなお墓が観光地のペールラシェーズ墓地にあったら、作家のオスカーワイルドの墓やロックスターのジムモリソンの墓のように落書きされまくり壊されまくりでボロボロになってしまうんだろうなぁ。ワタクシ、ロシア人の小さな奇跡を見たような気になりましたね。
どうもお世話になりました。
さーて、墓参りも終わったし、また雨の中をチャリチャリ~と帰るか―。
これが墓地内に立っているロシア正教会。1939年に建てられたそうです。
1939年と言えばスターリン時代。でもスターリンは教会をダイナマイトで爆破するような人なので・・・、だれがお金を出したんでしょうね?
このロシア人墓地のすぐ近くにはロシア人の養老院もあります。養老院があるということは、ロシア語が通じる医者やヘルパーさんがいるんだろうか?ロシアのおじいさんおばあさんたちは故郷を思いながら、バラライカ片手にロシア民謡とかうたっているのだろうか?(ちなみにパリの日本人社会にはそんな養老院はないし、墓も寺もありません)
雨の中をチャリチャリ~と走っているとおいしそうなロシア料理店発見!
「ウォ―、こんなピザ屋とケバブ屋しかない郊外にロシア料理店!しかもおいしそう~」
しかし雨の中をチャリチャリしていたワタクシはびしょびしょで中に入れない・・。
「くそー、ウォッカでガソリンいれてえー」
パリの南25㎞の郊外にこんなロシアの桃源郷があったとは。今日まで知らなかったぜぃ。
(※パリにあるロシア料理店というのは日本レストラン数千店に対してめちゃめちゃ少ない。その中でたぶん一番有名なのは、日本大使館の近くにあるアレクサンドルネウスキー大聖堂(1860年建立)のすぐ近くにある『D』という100年くらい歴史のあるレストランだろう・・・。でも高級店なので、そんなところはワタクシは行けない・・・。)
くそー、いつか近くのマラソン大会を走って一人で来てやるぜー。ピロシキ食べて、ボルシチかストロガノフ食べてストリーチナヤだーー。
それではみなさん、スパシーバ、ダスダヴィーニャ―。
≪満≫ちゃんの関係のない話でした。
ちゃんちゃん。